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Vol.16
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前回の Ukra の調査で、手帳の入手についての経緯が分かったので、今回は解読した手帳の内容について、一気に書いてしまおうと思う。手帳の内容を書くにあたって、その内容にタイトルを付けたほうが良いような気がしたので、本来の持ち主(筆者である高井忠平)に断わる術もないのだが、勝手にタイトルを「失われた楽園」と付けることにした。 |
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| 『失われた楽園』(今までのあらすじ) |
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| イタリアの博物学者バロータは少年の頃、地底に失われてしまった都市を求めてローマ皇帝ネロが軍をアフリカに派遣したという事実を知って、かつてこの地上を支配していたと思われるなぞの文明の存在について興味を持った。その後、プラトンのいうアトランティスやム−などの失われた文明について調べたり、また世界各地に残る神話や伝説、口伝などを集めて、分類、分析した。スペインのキリスト教司祭が、南米マヤ、インカ、アステカの植民地から持ち帰った遺跡などの資料も、イタリアの各宗派の本部の伝手を使って調べ尽くした。その結果、かつて(1万年以上昔)この地上に優れた文明国家が存在していたこと、そしてその文明が突然地上から姿を消してしまい、その都市の一部が地底のどこかに、今もそのまま眠っている可能性があることをバロータは確信し、その都市を探し出すことに学者生命を賭けることにした。 |
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| バロータが失われた都市探しに学者生命を賭けようと思った理由は、文明の発祥がメソポタミア文明よりさらに溯った時代であることを証明するためではなく、それは失われてしまった文明が、今の我々文明と異質のものであったと確信したからだ。文明とは知識の集大成、知識集積の結果だ。もし、我々の知識を得る方法とまったく別の方法で知識を得る道があったとしたら、その知識体系の結果として出来あがった文明は、我々の文明とまったく概念を別にした文明になっているはずだからである。バロータはそういう文明に魅せられたのだった。数々の神話を調べた結果、神話に出てくる神の国とは、この失われた文明を言っているのではないかと思ったからで、バロータは神の国、楽園を見てみたかったのだ。 |
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| バロータは楽園探索のパトロンを探していたが、たまたまマヤの遺跡から出土した黄金のプレートを持つ貴族と出会い、見つけた財宝を引き渡すという約束で、探索の費用を出させることに成功した。 バロータはまずチベット、インドを探索し、インドからイギリスに渡り、アイルランド、スカンジナビア諸国を調べ、アメリカ大陸に渡った。中央アメリカの遺跡を見て回り、アメリカインデアンの神話伝説を集め、エスキモーの神話も研究した。そして1896年アメリカの商船に船員として乗り組み日本に渡った。 |
| 九州国東にある穴森神社の神官の子として生まれた高井忠平は、神職を嫌い、叔父を頼って横浜に商人見習いとして出て来ていた。横浜に出て来たものの忠平は、生きる目標が見つからず悶々としていた。そんなとき、日本に来ていたバロータに出会う。暴漢に襲われていたバロータを武芸に長けた忠平が助けたのだ。明治29年の暮れのことであった。二人は急速に親しくなり、英語塾の講師をしていたバロータの生徒になってからはバロータの本来の研究、楽園探査の手助けもした。親しくなるにつけ忠平は、バロータの学者としての実力と、世界を探索して回った行動力に圧倒されて、バロータを師と仰いで自ずから弟子として仕えるようになっていった。 |
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| あるとき、ふとした会話からバロータは、忠平の実家穴森神社に伝わるという口伝に興味を持ち、楽園探査の地を九州に移す。忠平は実家に伝わる口伝を改めて聞いて驚いた。それは、古代、地下に張り巡らした地下道の出入り口を守るために建てられたという穴森神社の由来だった。二人は九州各地を調べて回ったが、地下への入り口は発見できなかった。そんなとき、軍部の人間が二人に接近して来た。大陸へ繋がるトンネルの発見に協力せよという申し出だった。当然二人は断り、探査地を琉球諸島へと広げた。約半年の間、情報を集めて探索したが残念ながら地下への入り口は発見できなかった。その代わりに新たな手掛かりをつかんだ。 |
| 琉球に来ていたアメリカ商船に香港のイタリア商館に連絡をとってもらうと、イタリアのパトロンから新たな資金が届いていることを知り、二人はそのままその船に同乗して香港に向かった。 |
| 『失われた楽園』(南海の島々) |
| 香港に到着した二人は、資金を受け取ると早速新たな探索に向けての準備を始めた。しかし忠平にとって香港は、始めての外国であり、イギリスに割譲されて国際都市になった街は、横浜とくらべるとまるで別世界であった。忠平はバロータの語学指導のおかげで英語、イタリア、スペイン語はかなり上達しており、フランス語も少し分かるようになっていた。忠平は何処に行っても言葉が通じるので、香港の街が面白くてしょうがなかった。夜になるとバロータの目を盗んでは街をうろつき回った。酒場、娼館などには出入りしたが、金に執着がなかったので博打には手を出さなかった。 |
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| 香港に来てひと月が経った頃、買い出しの帰りに行き着けの酒場で飲んでいると、時々見かける男が声をかけて来た。中国人だと思っていた男は日本人で、薩摩の出と聞いて忠平はすっかり警戒を解いてしまった。男は日本人は懐かしいとしきりに酒を勧め、また忠平の仕事やこれからの予定をしきりに聞いて来た。忠平は適当に返事をしながらも進められるままに酒を飲んだ。目を覚ますとそこは酒場から少し離れた雑貨屋の裏の路地だった。やられたと思って調べると、ポケットの中は空で、財布と探索準備に使っていたメモ帳が盗まれていた。急いで酒場に戻ると、買った品物は盗まれずに残っていたので忠平はホッとして宿に帰った。しかしそこでも騒ぎが起こっていた。部屋が荒らされていたのだ。幸いバロータは船のほうに泊まっていたし、大方の荷物もすでに船に運んであったので盗られた物はないようだった。実は、次の探査地をミクロネシアの島々に決めていたので、30フィートのスループ船(1本マストの帆船)を買って出航の準備をしていたのだ。二人はこの事件の裏に不吉な影を感じて、急いで香港を離れることに決めた。香港を発つ際に、カロリン諸島に詳しいというフィリピン人のクルーをひとり雇った。 |
| 香港を出港したのは1898年(明治31年)4月のことだった。バロータは船員をしていたこともあるので航海術も充分に心得ていた。海は穏やかで風も良かったので、船は10日あまりでフィリピンのルソン島に着いた。その後船は東側を島伝いに南へと航海した。途中上陸するたびに、トンネルの入り口を探し、失われた楽園への手掛かりを探った。香港で雇ったクルーのロロは、ミンダナオ島の出身だったが地元民との通訳としてとても重宝したし、フィリピンの海にも詳しかった。 |
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| 洞窟を幾つか調べたが、コウモリがいるばかりで楽園に繋がっているという感じのものは一つも無かった。しかし集めた神話の中に、神は太陽と共に東から来たという話が幾つかあったので、やはり神の国はフィリピンの東の海の何処かにあるということか?ミクロネシアの何処かか?それともハワイか?(続きは次回に!) |
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楽園の放浪者の独り言
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| 先日掲示板に、オレの本家(仮家は黄色のキャンパー)はカーフビレッジに密かに置いてある31フィートのクルーザーだと書いた。恰好つけの放浪者としては、まともな家を持つのはチョットと思っているわけで、それで家がクルーザーなのだ。しかし悲しいかな、オレは日本でヨットに乗る(操縦)ことが出来ない。なぜなら小型船舶の免許を持っていないからだ。日本ではレジャーボートに乗る(操縦)のに免許がいるのだ!たしかにモーターボートやジェットスキーでの事故があるから免許制度は必要かも知れないが、この免許制度発足当時の頃を知るオレとしては納得が行かないものがある。 |
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| 小型船舶操縦士免許というものは1971年以前から存在した。当時この免許は、自動車の免許でいえば二種免許に相当するもので、お客を乗せる船の船長が持つべきもので、一般のレジャーボートの操縦者は必要無かった。60年代後半からレジャーボートの数が増え始めると、海水浴場でモーターボートと泳いでいる人の接触事故が起こり始めた。こういう事故を減らすという目的で、1971年、エンジン付きの船の操縦者はすべて小型船舶操縦士免許を持たなければならないという法律が出来あがった。当時、ヨットに乗る連中や、漁師のオッチャン達はみんな反対した。しかし、船に乗っているという証明と簡単な筆記試験で免許はやるからという御上の説得で、多くの人は試験を受けて免許を取った。もちろんボイコットした人たちもいた。 |
| オレ達がおかしいと思ったのは、事故を無くすには、人とボートの利用海域を分離することが必要で、免許という御墨付きを持っているからといって、海水浴場でモターボーとを飛ばせば事故は起こるということだった。だいたい、人が泳いでいるところでボートを飛ばすこと事態、海の男達の常識外のことだ。海の上での行動はすべて自己責任というのが海の常識であり、だからこそ海は自由なのだと思っていたから、海に出るときは細心の準備をし、海の上では慎重に行動した。しかしイザというときの覚悟はいつも持っていたつもりだ。 |
| 当時、一つの噂が流れていた。小型船舶操縦士免許制度の蔭に日本船舶振興会の笹川良一が居るという噂だ。この免許制度ができると、日本船舶振興会に利権ができ、莫大な金が振興会に入ることになる。その頃笹川良一は政界のドンと言われ、絶大な権力と金を持っていた。持って無いのは名誉だけだと言われ、笹川良一は金でノーベル平和賞を買おうとしているという噂だった。だから振興会に入った金を惜しみ無く援助金として国連に差し出していた。「人類皆兄弟」である。平和のために金を使うのは悪いことでは無い、オレも賛成だ。しかし彼は個人の野望と集金のために、海の自由とロマンを奪ったのだ。あれ以来、小型船舶操縦士免許は等級に別けられて難しくなり、船検が出来て、役に立たない桜マークの着いた装備を買わされたり、船名をカタカナで書かされたりと、やたらに規制が増えているらしい。 |
| 以上は噂で、真実かどうかは分からないので、当方は一切責任は負わないというやつだが・・・。 だからオレは日本じゃなくてポレポレ島でヨットに乗るのだ。 |